Enoshima Baby!!
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■ web連載小説 江ノ島ベイビィ● 第1回

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 せっかく、いい気分になれていたのに。池袋から都内を出るあたりまでは、鬱な気持ちになったり悲壮な顔をしていたりしたけれど、神奈川県まで来てしまったと分かったあたりで、ふと、この一ヶ月ちょっとの間立ちこめていた悪いスモッグが晴れたようになって、大船での待ち時間もなんだか妙に嬉しくて、実際に鎌倉まで来て駅を出たら、ほとんど観光気分で浮かれたようにさえなっていたんだ。最低区間分しか切符を買ってなかったので精算機で乗り越し料金を見たときには「やっちゃった」と思ったけれど、それもなぜかネットゲームで自分のキャラのレベルがMAXになって光り輝くよりも確実な達成感があって爽やかな気分だったんだ。夜の浜辺を歩くうちに、全部、無駄だと悟りが開けてくれたんだ。なにをやっても無駄、ということは、やってもやらなくても同じ、ということで、それはつまり、焦ったところでどうもなりはしないのだから、焦らなくてもいい、ということでもあるんだ。そう分かったんだ。最初は、家出になったから、もう家には帰れない、と、切羽詰まった悲壮な感じもあったのに、夕方には帰ってもいいかな、と、ちらりと思ったりもするようにもなっていたんだ。それなのに。
 水が必要だ。水。癒し。癒しの象徴、ウォーター。他の癒し系な感じの何かもついでに。癒し系の、えっと、動物……そうだ、ネコ。猫とか! 猫がにゃぁにゃぁ言って頬をなすり付けてくれたら優しい気持ちになって涙も流れてくれてボクは水分を補給できる。
 と、こういった具合に思考が暴走して、気持ち悪くなったり嫌な汗をかいたりして一歩も動けなくなるのは、パニック障害(Panic Disode)ではないだろうか、とググってみたことがあるけれど、どうやらボクのこれとは違うものらしい。そもそもパニック障害というもの自体をボクは誤解していたようだ。脳の神経伝達物質関係の問題で、なんの前ぶれも直接の理由もなく、めまいとか動悸とかの発作(パニック発作)が起こるのがパニック障害だそうで、ボクみたいに自分でパニックな状況に追い込む自虐的なのは、多分、かなり違う。
 けれど、パニック障害患者の支援サイトのBBS(インターネット上の掲示板)を読んでいて、なんだか凄くすまない気持ちになったのは、ボクがその病気のことを誤解していたからではなかった。そこに書き連ねてある患者の方々の苦痛を、自分が不登校や引きこもりを始めて親に怒鳴られる日々を過ごすようになるまでは、ボクは苦痛だとは思えずに、グチっぽい人の甘えだ程度にしか捉えられなかったんだろうな、と思ったからだ。それは偽善であって自己嫌悪の種だれども、自分に憤ってなじるよりも、すまないと謝りたくなる気持ちの方が強かった。
 泣き出したくても、なぜ泣くのか理由が分からなくて涙を流せないような「怖い」という苦しみは、ホラーのゲームで感じるような恐怖とは種類が少し違う気がする。恐怖そのものよりも、これから脳の中でふくれあがる恐怖の予感に怯えて足が動かず、どこに行くこともできなくなる。前になんか進めない、後ろになんか戻れない。
 結果から言うと、ボクの思考の暴走は毎回なんとか収束できていて、今回もまたなんとかなった。いつもは、こんな風になったら、とりあえず寝てしまう(そして「なに昼間から寝ているんだ」と父や母に怒鳴られる)。今回は、夜中に浜辺を歩きながら歌を歌って楽しくなったことを思い出して、目を閉じて大声で歌ってみたら嫌な気分が引いて行ってくれた。「とぅーるとぅるす・とぅっとぅー、とぅーるとぅるす・とぅっとぅー、とぅーるとぅるす・とぅっとぅー……」次第に早口になるテンポで繰り返すうちに、ボールペンの粘ったインクの染みは薄まって行き、波の音が頭蓋骨の内側に徐々に忍び込み、やがてはボクの歌声も呑み込んで、繰り返すそれだけでボクの知りうる現実をいっぱいにして、意味のある言葉が頭の中から消え去った時、ボクは閉じていたまぶたを開いた。
「……とぅーるとぅる……す・とぅるっ……とぅー……」極端にスピードの落ちるフェードアウトで、最後の一回を止める。そして、ため息をついた。周囲を見回した。とくに誰も見当たらなかった。興奮していたせいだろう、眠気は引いていた。けれど、すぐに反動が来るのだ。それは今までの経験で分かっている。しかも今、ボクは肉体的にもの凄く疲れている。下手をすると、砂に倒れて突っ伏したまま眠ってしまいかねない。



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